枕崎のかつお遠洋漁業の父 原 耕(1876〜1933)
枕崎のシンボル火之神岩
千代丸(原耕の建造した船)の出航シーン
枕崎市内(松之尾町)に立てられた原耕像

※枕崎の市民劇団「ぶえん」が2004年に原耕をモデルにした演劇(見はてぬ夢)を上演しました。
 1876年坊津の網元の家に生まれた原耕は、大阪高等医学校(大阪大学医学部の前身)で医学を学び29歳の時枕崎で外科の医院を開業しました。そのころ、日露戦争や世界的な経済恐慌により、県内のかつお漁はふるわなくなり、漁民たちは苦しい生活を余儀なくされていました。それをみかねた,耕はかつお漁をたて直そうと決心し、医院は女医である妻の千代子にまかせ、かつお漁業に専念しました。耕はこれからの漁業は、大型の石油発動船でなければならない、しかも近海ではなく、未開の南洋に新しい漁場を開拓せねばならないという思いから1925年枕崎造船所で91トン150馬力の当時としては最大級の船を建造しました。
 耕はこの船に妻の名前をとって「千代丸」と命名自らも乗船し、沖縄、台湾、フィィリピンの近くまで行き、次々と新しい漁場を発見しました。1927年(昭和2年)耕は、これまでだれも行った事のなかった、南洋航海に出発しました。その年の10月18日「千代丸」は日本の漁船として初めて赤道を超え、よい漁場を次々に発見しました。当時の鹿児島県知事は一回目の航海を終えて帰港した原耕一行に対して、「コロンブスのアメリカ大陸発見以上の大功績である」と最大級の賛辞をおくったのでした。
 1929年二回目の航海で、アンボン島のラハにかつお節製造工場や缶詰工場、製氷工場等をつくり、一大南洋漁業基地を設立した耕でしたが、1932年(昭和7年)集大成を目的に出発した三回目の南洋探検の途中で悪性のマラリアに冒され、1933年8月3日58歳で亡くなりました。
 耕の南洋漁場開拓により、枕崎は日本でも有数のかつお遠洋漁業基地として、その後飛躍的な発展を遂げるに至りました。